人を幸せにする服とはどんな服だろうか?
自分自身を振り返ってみると、幸せを感じたときはどんなときだっただろうか?ひとつは安心感を感じたとき、服に包まれる安心感、自分の身を守ってくれる安心感、だろうか。
そこから連想するのは母親だったり祖母だったりの顔だ。やはり服というものは母親の立場にいる人が与えてくれるものだからだろう。そしてその母親や祖母の表情は決まってやさしく微笑んでいる。
次に、生地が心地よく感じられるときだろう。肌あたりの良い優しい生地、綿などの天然繊維が心地いいだろうか、季節により心地よく感じられる素材は変わる。夏ならサラッとした生地、冬ならふわふわの生地などだ。
第三に思い浮かぶのは、自分の思い通りのデザインや形状の服を着たときだ。それによって自分を表現できる。人は古代から服に装飾を施してきた。着るだけであれば装飾は不要のはずだ。装飾を施したのはそこに自分らしさ、他の何者でもなく自分であることの表現だったのではないか、そんな気がする。
それは遠い年月を隔てて生まれてきた自分にも、理解できる感情だ。きっと人類が生まれてから何千年も何万年もずっと遺伝子の中に受け継がれている。
いま考えた3つ、安心すること、生地の心地よさ、自分を表現すること、これ以外にも服が人を幸せにすることはあるだろうか?ちょっとすぐには思い浮かばない。
とりあえずこの3つがあるとして、じゃあ染色ができることって何だろう?人を幸せにする服の手助けがどんな形でできるだろうか?
藍染めの場合として考えると、青は精神を落ち着かせる作用があるそうだ、また青は自然界のうち、特に地球の色でもある。藍で染めた色は空の色にも似ている。その色に安心感を抱くということはある。視覚から入りそれが小さな幸せを呼ぶ、藍はそんな染料だと思う。
また化学合成の染料では得られない、肌あたりの良さというものがある。触って比べたところでその差は分からないかもしれないが、肌というものは私たちが考える以上にいろいろなことを感じているらしい。それこそ音を聴いたり、光を見たり。そうした微細なセンサーが無意識化で感じ取り、作用を受けているということもなくはない。なにしろ脳が関与していないことだから。
服の繊維と肌が触れ合うのは、厳密に言うと染料分子の後になる。言い換えると肌に最初に触れるのは染料分子である。その染料分子が、化学合成のものであるだけならまだしも、染色工程の際に薬品によって染め付けられていたり、色止め剤として薬品でコーティングされていれば、私たちの肌は薬品と24時間触れ合っていることになる。